石狩川河口左岸に位置する本町市街の北東端に在る。
明治7年(1874年)以前は、対岸の現・八幡町にあつた。
安政5年(1858年)正月に、箱館八幡宮(現函館市)の神主菊池重賢による幕府箱館奉行所への末社造営願「今殿蝦夷地一圓御料になり追々お開きになるにつけて、蝦夷地の中へ當社八幡宮の末社を勤請し、蝦夷地惣鎮守として宮祠造営天下泰平國家安穏、五穀豊穣、四夷懾伏、漁業充満、船々海上安全彌相祈、場所場所に於いて氏子の者に申しすゝめ
田畑開墾支度、石狩領サツポロ麓に社地百廾間四面社林十五丁を賜はるよう」-が許可せられ、安政6年正月20日に神主から奉公に請書が提出されている。
このいきさつについて、『新札幌市史』第一巻平成元年は次のように述べている。
『イシカリに「東西蝦夷地総鎮守」の設立が企図されたのは、荒井金助(調役)がイシカリに本府をおき、将来は日本の“北京”にするという構想と軌を一にしている。すなわち、イシカリが蝦夷地の中心となり、蝦夷地の本府をこのイシカリに置するもので、これに対応した総鎮守社の設立が必要とされたのである。八幡社設立の元由は、むしろイシカリ役所及び箱館奉行所側にあり、菊池大藏の方に誘導があつたとみられるのである。
(中略)八幡宮はその後、万延元年(1860年)に社地仮渡をうけ、文久元年(1861年)にイシカリに留守居所がもうけられ仮勧請がなされ、さらに文久3年に、下司藤枝正彦(多仲、江差姥神神社宮司)が造営方として派遣、以降イシカリに滞留する。しかし、ハツサムの造営はすすまず「蝦夷地爲総社石狩札幌之清地ニ奉斎度宿志ニ候得共末果候」というように、ついにサッポロへの創立はならなかつた。八幡宮はイシカリに仮勧請のまま明治をむかえ、5年(1872年)に石狩八幡宮となる。』
明治7年(1874年)8月、開拓使官員と町有志が協議のうえ、現在地に奉遷し、現在地の稲荷大神を相殿に祀る。
同8年(1875年)3月、石狩郡郷社となる。
同33年(1900年)本殿等を新築。大正4年(1915年)神饌幣帛料供進神社に指定される。
昭和21年(1946年)6月28日、宗教法人となる。
相殿稲荷大神は、文久元年(1861年)5月初午に、幕府箱館奉行所石狩市役所の調役荒井金助が勧請した。
(石狩八幡神社御創設140周年記念事業 『石狩八幡神社史~鮭のまちと共に140年』より引用)